こんにちは!
プロフィールまでご覧いただき、
本当にありがとうございます。
ご挨拶が遅れました。
「祥」と申します。
あっ、こう書いて「しょう」と読みます。
時が経つのは早いもので、
もう今年で39歳になります。
一般的な会社では、
もう中堅くらいの年齢ですね。
出身は東京都で、
幼少期からずっと神奈川県に住んでいます。
今は同い年の奥さんと、
来年で3歳になる息子と暮らしています。
仕事は、飲食業をずいぶんと長くやっておりました。
トータルにすると、だいたい18年ほどになります。
僕が一番最初に飲食業で働いたのは、
まだ高校生だったころの話です。
今から20年ほど前、
親と住んでいたアパートの近くに、
チェーンのファミレスがありました。
車の往来もそこそこある街道筋と、
護岸工事がされた味気ない川。
そのふたつに挟まれた立地にある、
本当にありふれたファミレスでした。
働きはじめる前は、
一般客として行ったことも数回あります。
あるとき、そのファミレスの店長から、
「バイトをしないか」とのお誘いを受け、
僕の飲食人生はスタートしたわけです。
最初は、洗い場や掃除からのスタートでした。
これがなかなかにハードで、
朝の9時に出勤すると、
いつも洗い物が山積みでした。
汚れ物は、両手持ちの茶色いプラケースに入れられ、
洗い場のそこかしこに放置されています。
確か、そのプラケースは「バスタブ」と呼ばれていました。
洗い物を置いておくためのスチールラックにも、
満杯の「バスタブ」が大量に積まれており、
その高さは、視線をさえぎるほどでした。
この、嫌になるほどの量の洗い物を、
ランチのピークまでにすべて片さなければなりません。
でも、朝からなぜこんなことになっているのか?
それは、ファミレスが24時間営業だったため、
夜中に出た洗い物が、朝までにすべて溜まっているんです。
夜中のシフトでは人数も少なく、
とても洗い物までは手が回りません。
朝9時の出勤と同時に、
この大量の洗い物との格闘が始まります。
しかし、仕事は洗い物だけではありません。
駐車場の掃き掃除や、窓ガラスの拭き掃除、
さらにはトイレの掃除も仕事に含まれます。
とにかく、あらゆる清掃を行わなければならないのです。
これも、ランチのピークが始まる前に、です。
出勤のたびに必死でした。
そして、下っ端への風当たりも強かった。
社員さんからもパートさんからも、
本当に誰彼かまわず怒られました。
「洗うのが遅い」
「洗った皿を早く持ってこい」
「表の掃除が雑だ」
など、とにかく怒られました。
自分は、こんなに必死にやっているのに……。
出勤のたびに誰かから怒られるので、
本当にバイトが嫌になったこともあります。
ただ、いまになって思えば、
社会人としての基礎を叩きこんでくれたと思います。
このファミレスは、接する道路の拡幅工事の関係で、
いまでは解体されてしまいましたが、思い出の職場です。
そして、高校生活も卒業という終わりが近づきます。
しかしながら、進学も就職もろくに考えず、
どうしようかと悩みながらも、なにもしない日々。
そんな折、2005年の3月のことです。
僕の父親の古くからの友人から、
「人手を探している店がある。働いてみないか?」
と、お誘いを受けたのです。
父親の友人は、当時うどん店を経営しており、
同じ麺業の方が集まる組合に加入していたそうです。
その組合の会合で、他の店が人手を探しているという話を聞き、
回り回って僕のところへも話がきた、ということでした。
人手を探しているという店は、
僕の自宅から車で20分ほどの距離の場所にあり、
静かな住宅地の中の小さなおそば屋さんでした。
なんとも素朴で昭和感あふれるおそば屋さんへ、
紹介してくれた父親の友人とふたりで面接に訪れました。
そこで働いていたのは、店主の親方と、親方の奥さん。
そして、ホールはパートさんがひとりだけ。
形だけの面接が始まり、すぐに親方がひとこと。
「明日からこれる?」
こうして、5年8ヶ月におよぶ「おそばライフ」が幕をあけたのです。
店は、昔ながらのいわゆる「町そば」で、
出前の業務もあり、担当は基本的にすべて僕でした。
文字通り、雨の日も風の日も、台風でも大雪でも、
ひたすらバイクでおそばを運び続けました。
夏場の灼けつくようなアスファルトも、
冬場の痛みさえ感じる冷たさも、
いまとなっては、遠い思い出です。
ここで手打ちそばなど、料理の技術を学ぶこともできました。
また、このころはまかないで毎日おそばを食べ続けており、
それがくせになってしまったのか、いまでもおそばが大好きです。
そんなおそばライフが終わりを告げたのは、
2010年の初秋だったと記憶しています。
もともと、親方は腰をひどく痛めており、
症状の悪化が隠せないほどになっていました。
もはや、心身ともに限界がきていたのでしょう。
親方は、店を閉じると僕に告げたのです。
昭和の時代から続いていたであろう店も、
こうしてあっけなく終わりを迎えたのでした。
僕はここまでずっと、
人の紹介で食いつないできたわけですが、
この次もまた人の紹介でした。
年も明けた2011年のこと。
無職となった息子を見るに見かねて、
僕の母親が、自分の行きつけだった飲食店の店長に、
働き口はないかと頼んでくれたのです。
そこは大手ではないものの、中堅の飲食チェーンで、
グループの年商は200億円ほどの規模でした。
その店長からは、
「うちは人手が足りているから、新宿はどうか?」
と、ありがたいご提案をいただき、
僕はまたも人の紹介で食いつないだわけです。
今度の職場は、泣く子も黙る大都会・新宿です。
そこは、「創作和食」を売りにした店舗で、
席数は300席ほどあり、店舗自体も3階建てという大きさ。
厨房はまさに戦場。
そんな中へ放りだされた僕は、
さっそく「使えない」という烙印をもらい、
また皿洗いへと逆戻りするのでした。
しかし、世の中はわからないものです。
一生懸命にやっていると、
あれよあれよと「主力」へ成りあがり、
バイトでありながら、副料理長へ大抜擢。
「激務」という印象の強い飲食業。
そのイメージに違わない激務ぶりでした。
朝9時から仕事が始まり、
ろくに休憩や食事もできないまま、
夜24時の終電に気付き、
慌てて帰る、なんてこともしばしばでした。
日によっては、あまりの疲労で、
道にへたり込んだまま動けなくなることも。
新宿の路上で、街灯の明かりに照らされながら、
「自分は、こんな仕事をずっと続けられるんだろうか……」
と、一抹の不安を覚えるようになります。
新宿での7年ほどの勤務を経たのち、転職。
超大手企業の子会社が運営する飲食店へ、
正社員として入社することになります。
こちらは、横浜のみなとみらいのど真ん中にありました。
客席の窓からは、きらびやかなみなとみらい地区が一望でき、
くさいセリフですが、本当にまるで宝石のようでしたね。
しかし、横浜での仕事は長く続きませんでした。
2020年、新型コロナウィルス騒動が直撃したからです。
予約はすべてキャンセルとなり、店は休業に。
訪日観光客であふれ、一帯は騒がしいほどだったのに、
みなとみらい地区は墓場のように静まりかえりました。
実は同じころ、私事で恐縮ですが、妻と結婚したのです。
すると、
いままでに考えなかったことを考えるようになりました。
「仕事はこれからどうなるのだろうか」
「給料はもらえるのだろうか」
「このまま飲食業界にいて大丈夫なのだろうか」
あのコロナ禍の中で、
それまで築いてきた価値観も人生観も、
大きく崩れていくのを感じました。
なにより、自分ひとりならともかく、
これからは妻帯者として、
家庭を守っていかなければなりません。
一時的とはいえ仕事もなくなり、
もともと平時には激務の飲食業界で、
今後も長く働くことができるだろうか?
疑問、疑念、不安。
そういったものが次々と噴出し、
仕事、ひいてはお金について、
真剣に考えるようになっていったのです。
そして、決定打となったのは、
妻との間に子供ができたことです。
家庭ができて、考えはまた大きく変わりました。
このまま惰性で、激務の飲食業界にいては、
家庭や子供との時間もとれなくなるだろう。
僕は、これまでの飲食業界での勤務の中で、
そうした方々の姿を間近で見てきましたので、
容易に想像ができる、最悪の未来でした。
そして、考えた結果は、
自分の力で収入を得る道でした。
ネットを利用したビジネスや副業について、
そういったものがある、ということは知っていました。
ところが……。
ネット検索やブログで情報収集をし、教材を買い、
実践をしようと思う一方、まったく前に進まない。
素人にとって、あまりに膨大に見える作業の量に、
正直なところ、ビビってしまったのです。
それでも、このまま飲食業界にはいられません。
どうにかしようとあがきますが、
実績や成果がない。
↓
発信できる情報がない。
↓
結局、なにもできずに終わる。
↓
当然、実績も成果も出ない。
という最悪のパターンに陥ってしまい、ドツボに。
「やっぱり、だめなんじゃないか……」
そんな思考が頭の中をぐるぐると回り、
どんどん追いつめられていきました。
しかし、とうとう引きあてたのです。
こんな自分でも、すぐに実績を出せる方法を。
この方法を実践してからは、
成果も次々と積みあがっていき、
発信できる情報も増えていきました。
「ついに、負のループを脱出したんだ!」
その喜びは、本当に言葉では言い表せません。
そして、ありがたいことに、
いまでも継続して成果を出せています。
しっかりと成果を出せたことで、
自分自身の考えにも変化がありました。
それは、
「同じように悩んでいる方々を助けられないか?」
ということ。
2020年から2023年まで、
まったくなんの実績も成果も出ず、
自己嫌悪に陥り、悩み苦しみ生きてきた。
いまでは結果も出せて、気は楽になったけれど、
もしかして、同じように悩んで苦しんでいる方が、
世の中にはまだまだいるのではないか。
だとしたら、これまでに培った自分の経験や知識で、
そういった方々を助けられるのではないだろうか。
特に、自分と同じような道を歩んでいる、
子育て世帯の方々の力になれたら……。
人を助けたい。
こうして文字にすると、
ともすれば傲慢にも見えます。
「お前はいったい何様のつもりだ」と、
きっとお叱りも受けることでしょう。
それでも、僕は決意しました。
僕は、僕にできることをしたい。
助かる方がひとりでもいれば、
それでいいじゃないか、と。
まったくなにもない状態でも、
本気で実績や成果を出したいとお思いの方は、
ぜひ僕を参考にしていただければと思います。
僕も、いっさいの虚飾を排し、
本気の実践の様子をお伝えしていきます。
ここまでお付き合いいただき、
本当にありがとうございます。
それでは、
ブログやメルマガでまたお会いしましょう。
あなたの一歩を手助けできるならば、
これ以上の喜びはありません。
【祥】
2024年2月9日、自宅のデスクより。
子育て世帯に超特化した副業
祥
自身が子育て世帯であり、同じ子育て世帯の方へ向けて、時間がなくてもできる副業や、自身も稼げた実績のある副業をご紹介しています。ご質問やご相談は、いつでも受け付けておりますので、どうぞお気軽にご連絡ください。