プロフィール

目安時間 18分

こんにちは!

プロフィールまでご覧いただき、

本当にありがとうございます。

 

ご挨拶が遅れました。
「祥」と申します。
あっ、こう書いて「しょう」と読みます。

 

時が経つのは早いもので、

もう今年で39歳になります。

 

一般的な会社では、

もう中堅くらいの年齢ですね。

 

出身は東京都で、

幼少期からずっと神奈川県に住んでいます。

 

今は同い年の奥さんと、

来年で3歳になる息子と暮らしています。

 

仕事は、飲食業をずいぶんと長くやっておりました。

トータルにすると、だいたい18年ほどになります。

 

 

 

僕が一番最初に飲食業で働いたのは、

まだ高校生だったころの話です。

 

今から20年ほど前、

親と住んでいたアパートの近くに、

チェーンのファミレスがありました。

 

車の往来もそこそこある街道筋と、

護岸工事がされた味気ない川。

 

そのふたつに挟まれた立地にある、

本当にありふれたファミレスでした。

 

働きはじめる前は、

一般客として行ったことも数回あります。

 

あるとき、そのファミレスの店長から、

「バイトをしないか」とのお誘いを受け、

僕の飲食人生はスタートしたわけです。

 

 

 

最初は、洗い場や掃除からのスタートでした。

 

これがなかなかにハードで、

朝の9時に出勤すると、

いつも洗い物が山積みでした。

 

汚れ物は、両手持ちの茶色いプラケースに入れられ、

洗い場のそこかしこに放置されています。

 

確か、そのプラケースは「バスタブ」と呼ばれていました。

 

洗い物を置いておくためのスチールラックにも、

満杯の「バスタブ」が大量に積まれており、

その高さは、視線をさえぎるほどでした。

 

この、嫌になるほどの量の洗い物を、

ランチのピークまでにすべて片さなければなりません。

 

 

 

でも、朝からなぜこんなことになっているのか?

 

それは、ファミレスが24時間営業だったため、

夜中に出た洗い物が、朝までにすべて溜まっているんです。

 

夜中のシフトでは人数も少なく、

とても洗い物までは手が回りません。

 

朝9時の出勤と同時に、

この大量の洗い物との格闘が始まります。

 

しかし、仕事は洗い物だけではありません。

 

駐車場の掃き掃除や、窓ガラスの拭き掃除、

さらにはトイレの掃除も仕事に含まれます。

 

とにかく、あらゆる清掃を行わなければならないのです。

これも、ランチのピークが始まる前に、です。

 

 

 

出勤のたびに必死でした。

 

そして、下っ端への風当たりも強かった。

 

社員さんからもパートさんからも、

本当に誰彼かまわず怒られました。

 

「洗うのが遅い」

「洗った皿を早く持ってこい」

「表の掃除が雑だ」

 

など、とにかく怒られました。

 

自分は、こんなに必死にやっているのに……。

 

出勤のたびに誰かから怒られるので、

本当にバイトが嫌になったこともあります。

 

ただ、いまになって思えば、

社会人としての基礎を叩きこんでくれたと思います。

 

このファミレスは、接する道路の拡幅工事の関係で、

いまでは解体されてしまいましたが、思い出の職場です。

 

 

 

そして、高校生活も卒業という終わりが近づきます。

 

しかしながら、進学も就職もろくに考えず、

どうしようかと悩みながらも、なにもしない日々。

 

そんな折、2005年の3月のことです。

 

僕の父親の古くからの友人から、

「人手を探している店がある。働いてみないか?」

と、お誘いを受けたのです。

 

父親の友人は、当時うどん店を経営しており、

同じ麺業の方が集まる組合に加入していたそうです。

 

その組合の会合で、他の店が人手を探しているという話を聞き、

回り回って僕のところへも話がきた、ということでした。

 

 

 

人手を探しているという店は、

僕の自宅から車で20分ほどの距離の場所にあり、

静かな住宅地の中の小さなおそば屋さんでした。

 

なんとも素朴で昭和感あふれるおそば屋さんへ、

紹介してくれた父親の友人とふたりで面接に訪れました。

 

そこで働いていたのは、店主の親方と、親方の奥さん。

そして、ホールはパートさんがひとりだけ。

 

形だけの面接が始まり、すぐに親方がひとこと。

 

「明日からこれる?」

 

こうして、5年8ヶ月におよぶ「おそばライフ」が幕をあけたのです。

 

 

 

店は、昔ながらのいわゆる「町そば」で、

出前の業務もあり、担当は基本的にすべて僕でした。

 

文字通り、雨の日も風の日も、台風でも大雪でも、

ひたすらバイクでおそばを運び続けました。

 

夏場の灼けつくようなアスファルトも、

冬場の痛みさえ感じる冷たさも、

いまとなっては、遠い思い出です。

 

ここで手打ちそばなど、料理の技術を学ぶこともできました。

また、このころはまかないで毎日おそばを食べ続けており、

それがくせになってしまったのか、いまでもおそばが大好きです。

 

 

 

そんなおそばライフが終わりを告げたのは、

2010年の初秋だったと記憶しています。

 

もともと、親方は腰をひどく痛めており、

症状の悪化が隠せないほどになっていました。

 

もはや、心身ともに限界がきていたのでしょう。

親方は、店を閉じると僕に告げたのです。

 

昭和の時代から続いていたであろう店も、

こうしてあっけなく終わりを迎えたのでした。

 

 

 

僕はここまでずっと、

人の紹介で食いつないできたわけですが、

この次もまた人の紹介でした。

 

 

 

年も明けた2011年のこと。

 

無職となった息子を見るに見かねて、

僕の母親が、自分の行きつけだった飲食店の店長に、

働き口はないかと頼んでくれたのです。

 

そこは大手ではないものの、中堅の飲食チェーンで、

グループの年商は200億円ほどの規模でした。

 

その店長からは、

「うちは人手が足りているから、新宿はどうか?」

と、ありがたいご提案をいただき、

僕はまたも人の紹介で食いつないだわけです。

 

 

 

今度の職場は、泣く子も黙る大都会・新宿です。

 

そこは、「創作和食」を売りにした店舗で、

席数は300席ほどあり、店舗自体も3階建てという大きさ。

 

厨房はまさに戦場。

 

そんな中へ放りだされた僕は、

さっそく「使えない」という烙印をもらい、

また皿洗いへと逆戻りするのでした。

 

 

 

しかし、世の中はわからないものです。

 

一生懸命にやっていると、

あれよあれよと「主力」へ成りあがり、

バイトでありながら、副料理長へ大抜擢。

 

「激務」という印象の強い飲食業。

そのイメージに違わない激務ぶりでした。

 

朝9時から仕事が始まり、

ろくに休憩や食事もできないまま、

夜24時の終電に気付き、

慌てて帰る、なんてこともしばしばでした。

 

日によっては、あまりの疲労で、

道にへたり込んだまま動けなくなることも。

 

新宿の路上で、街灯の明かりに照らされながら、

「自分は、こんな仕事をずっと続けられるんだろうか……」

と、一抹の不安を覚えるようになります。

 

 

 

新宿での7年ほどの勤務を経たのち、転職。

 

超大手企業の子会社が運営する飲食店へ、

正社員として入社することになります。

 

こちらは、横浜のみなとみらいのど真ん中にありました。

客席の窓からは、きらびやかなみなとみらい地区が一望でき、

くさいセリフですが、本当にまるで宝石のようでしたね。

 

 

 

しかし、横浜での仕事は長く続きませんでした。

2020年、新型コロナウィルス騒動が直撃したからです。

 

予約はすべてキャンセルとなり、店は休業に。

訪日観光客であふれ、一帯は騒がしいほどだったのに、

みなとみらい地区は墓場のように静まりかえりました。

 

 

 

実は同じころ、私事で恐縮ですが、妻と結婚したのです。

 

すると、

いままでに考えなかったことを考えるようになりました。

 

「仕事はこれからどうなるのだろうか」

「給料はもらえるのだろうか」

「このまま飲食業界にいて大丈夫なのだろうか」

 

あのコロナ禍の中で、

それまで築いてきた価値観も人生観も、

大きく崩れていくのを感じました。

 

なにより、自分ひとりならともかく、

これからは妻帯者として、

家庭を守っていかなければなりません。

 

一時的とはいえ仕事もなくなり、

もともと平時には激務の飲食業界で、

今後も長く働くことができるだろうか?

 

疑問、疑念、不安。

 

そういったものが次々と噴出し、

仕事、ひいてはお金について、

真剣に考えるようになっていったのです。

 

 

 

そして、決定打となったのは、

妻との間に子供ができたことです。

 

家庭ができて、考えはまた大きく変わりました。

 

このまま惰性で、激務の飲食業界にいては、

家庭や子供との時間もとれなくなるだろう。

 

僕は、これまでの飲食業界での勤務の中で、

そうした方々の姿を間近で見てきましたので、

容易に想像ができる、最悪の未来でした。

 

 

 

そして、考えた結果は、

自分の力で収入を得る道でした。

 

ネットを利用したビジネスや副業について、

そういったものがある、ということは知っていました。

 

ところが……。

 

ネット検索やブログで情報収集をし、教材を買い、

実践をしようと思う一方、まったく前に進まない。

 

素人にとって、あまりに膨大に見える作業の量に、

正直なところ、ビビってしまったのです。

 

 

 

それでも、このまま飲食業界にはいられません。

どうにかしようとあがきますが、

 

実績や成果がない。

発信できる情報がない。

結局、なにもできずに終わる。

当然、実績も成果も出ない。

 

という最悪のパターンに陥ってしまい、ドツボに。

 

「やっぱり、だめなんじゃないか……」

そんな思考が頭の中をぐるぐると回り、

どんどん追いつめられていきました。

 

 

 

しかし、とうとう引きあてたのです。

こんな自分でも、すぐに実績を出せる方法を。

 

この方法を実践してからは、

成果も次々と積みあがっていき、

発信できる情報も増えていきました。

 

「ついに、負のループを脱出したんだ!」

その喜びは、本当に言葉では言い表せません。

 

 

 

そして、ありがたいことに、

いまでも継続して成果を出せています。

 

しっかりと成果を出せたことで、

自分自身の考えにも変化がありました。

 

それは、

「同じように悩んでいる方々を助けられないか?」

ということ。

 

 

 

2020年から2023年まで、

まったくなんの実績も成果も出ず、

自己嫌悪に陥り、悩み苦しみ生きてきた。

 

いまでは結果も出せて、気は楽になったけれど、

もしかして、同じように悩んで苦しんでいる方が、

世の中にはまだまだいるのではないか。

 

だとしたら、これまでに培った自分の経験や知識で、

そういった方々を助けられるのではないだろうか。

 

特に、自分と同じような道を歩んでいる、

子育て世帯の方々の力になれたら……。

 

 

 

人を助けたい。

 

こうして文字にすると、

ともすれば傲慢にも見えます。

 

「お前はいったい何様のつもりだ」と、

きっとお叱りも受けることでしょう。

 

それでも、僕は決意しました。

 

僕は、僕にできることをしたい。

助かる方がひとりでもいれば、

それでいいじゃないか、と。

 

 

 

まったくなにもない状態でも、

本気で実績や成果を出したいとお思いの方は、

ぜひ僕を参考にしていただければと思います。

 

僕も、いっさいの虚飾を排し、

本気の実践の様子をお伝えしていきます。

 

 

 

ここまでお付き合いいただき、

本当にありがとうございます。

 

それでは、

ブログやメルマガでまたお会いしましょう。

 

あなたの一歩を手助けできるならば、

これ以上の喜びはありません。

 

【祥】

 

2024年2月9日、自宅のデスクより。

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祥

子育て世帯に超特化した副業

自身が子育て世帯であり、同じ子育て世帯の方へ向けて、時間がなくてもできる副業や、自身も稼げた実績のある副業をご紹介しています。ご質問やご相談は、いつでも受け付けておりますので、どうぞお気軽にご連絡ください。

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